昭和40年07月09日 朝の御理解



 信心をさせて頂いておると、段々諦めがよくなると。諦めが良くなるという事は、その、どういうことかというと段々、本当の神様の働きというものが、おぼろげながらでも分かってくるからだと思う。ね、(だから?)本当におぼろげではないはっきりと分かってくるようになる時に、諦めではなくて、お礼と御礼という事になると思うね。私はあの、人間の幸せというのはそう言う様な本当の事が分からしてもらい。
 そういう本当の事、本当の事のものの考え方とか見方というものが身に付いてきてからが、幸せだとこう思う。信心のあるもんとないもんの違いというのは、そこだと思う。ね。昨日は昼頃でしたかしら、むつやの信司さんがお参りしてまいりましてから、自動車に、川崎かどっかあっちんにきでしょうか?追突されたと、止まっておるのに。それがその、追突した方の人が勿論悪いですから、どこどこの人であるという事も解ったから、勿論弁償して下さる訳なんでしょうね。
 それでもう御祈念がすんでから、そうでした、秋永先生が柳川まで商売に参りましたからというてから寄られた。自動車をもってその自動車をやろうとこう、思うとった瞬間にドーンとこうショックがあったと。ところが酔っ払い運転でその単車に乗っておった人が、先生の自動車の後ろのほうへぶっつけたと。そしたら(びっくりしておるところが、)その倒れて怪我しておらんかと思うてから、引き起こしたところが、あのおかげで怪我もしてなかった。そしてすみません。
 私がもう酔っ払っとるけんで、警察には言わんで下さいとこう言うて。何か職人さん風の人らしい。それであの私の親方の家がすぐそこにありますけんでそこからお金ば、あの取ってきますけん、すんませんがそこでちょっと待って下さい。っち言ってからそのいったときに秋永先生が感じたと言うんですね。ははぁこのまま逃げるかもしれんと、こう思うたと。けれども逃げてもいい。
 おとり払い頂いたのだからと、こう思うたと。そいけん向こうがちょっと待ってくれと言うたけん、待っとったらすぐお金を五千円から借りてきて、どうもすいません。警察には言わんで下さい。と言うてからその行ったと、こう言うわけなんですね。まぁその昨日同じような事柄を二つお取次ぎさせて頂いたんですけれども、そういう具合ですね。ひっつかまえといて離さんと、お前単車は何?まぁ、どこか?と。
 誰か?と金とりにいくなら、俺がそこまでついていくと。と言うかですたい。ね。そこらへんがあのこのままこの人はもう逃げるかもしれん。今時はそんな人は沢山おるですね。ひき逃げというてそれが沢山あるくらいですから。そう言う様な場合ですね。あの自分の信心の程度っていうものを、知る事ができます。物をとられたりする場合でも同じ事。本当におとり払い頂いてありがたい。
 と言う様な本当の思え方が出来たら、こんなに楽な事はないですね。おとり払い頂いてありがたいと言いながら、警察にちゃんと言うとかにゃ出来んと。それはそれが当たり前なんです。本当言うたら。けれども本当の幸せというのは、それでは幸せではありません。とられたからというて、警察に言うとかんならんと言う様な事ではですね、まだほんなこっじゃありません。
 怪我させられたからというて向こうから、いわば賠償金をとらなければならない様な事では、まだ幸せじゃありません。まだ本当の神様を分かっとるとは言えません。ね。段々むこうがこちらが千円ぐらい例えば払ういうた、向こうが五百円しか持ってこんじゃったと、まぁ大難を小難でおかげ頂いてからと諦める。そういう程度のところからです。ね。本当にこちらから、お詫びしたいごたる気持ち。
 神様にはそこのところは、お礼を申上げたい様な気持ち。こう言う時ですね幸せを感じるのは。もう私は北京から帰りましてすぐの時分でしたが、長男が五つだったでしょうか?もうその位時分。私ここんとこに掛けておった。善導寺からお参りして帰って来てから、ちょっとお縁に掛けておったら。もう私の目の前でその普通こんな風にして敷かるですもんね、勿論自転車でしたけれども、縦しにこう敷かれましたもんね。
 もうそれから隣のおじさんがすぐ出て来てから、自転車を引っ掴まえといてから。あのまぁ怪我どもしてないかどうか、ようと見てみなさいっちゅう訳です。私はもうその怪我しとるとかしとらんとかもう、どうもなかごたるならば離すばってんか、ね。怪我しとるんとならば薬代ぐらい取らな。と言った様なものではなくてですたい。もう本当に私は原口さんが捕まえとって下さったけれども、もうどうも本当にすいません。
 子供がキョロキョロするもんじゃから、本当にどうも済みません。お急ぎなさっとるとこすんまっしぇん、どうぞ早く行って下さい。と言ってから原口さんが腹かきなさった事、折角捕まえてやっとった所えちゅうわけなんでしょう。でも本当にむしろその人の急ぎなさっとるのに済みませんというごたる気持ちなんです。問題は。私は折角おかげを頂くんなら、そこまでその諦めがようなれというんじゃありません。
 そこまで分かれと言うのです。ね。さぁとられたから怪我させられたから、ね。それで取りにいく。まぁそういう時にです。本当にもうさらさらとして、さらさらとしてというよりむしろですねその事に対しておとり払い頂いて有難しとか、ね。相手の方にかえってお礼を言うという思い方なんです。そのへんはまぁ実にそのお互いの信心の程度ですから、ピンからキリまでなんですけれども、ね、
 本当の事が分からしてもろうて、本当の事が出来なければ、本当の事になりません。ね、だから結局それは、自分の信心を思うてみたときに、この程度しか分かっていないなぁという事がです、分かるのですからそこの所に焦点を置いてです、諦めがようなれというんじゃないです。本当の事が分かったら、そうしなければおられんのです。詫びなければおられんのです。神様にお礼をいわずにはおられんのです。
 そこで私は思うのですけれどもね。常日頃にしっかり一切の事の上にしっかりお願いをしとかんならん、ということです。ね、あたし共の信心こんにちも、ね。いうなら火難盗難水難は言うにおよばず。ね。いうなら現在いわゆる交通事故なんかの事なんかです。交通事故のうえの事においても、私達の家族一同の者がです。どうぞ無事息災おかげを頂きますようにという、一心の願い、祈りというのがいるです。ね、
 そうしてです。私共は分かりません。けれどもこれしこ一生懸命お願いしておってから起こってくる、起こる事でございますから、これは特別の神様のご都合に違いはない、と思う時にです。諦めではない、本当の事が言える、思えるおかげ。そしてある時はお詫びをするような気持ち、神様にはお礼を申しあげるような気持ちが生まれてくる。そこその先なんです。神様の本当の働きは、また知る事ができるのは。
   おかげ頂かにゃいけません。